taiwanochikaraとマーケティングのコラム&エッセイ

30年働いた日/米/英資本の外資系広告会社を卒業して改めて思う日本人のことや、その他興味のあるテーマを気儘にコラム風やエッセイ風に書き綴ります。

子供の頃、雪の積もった歩道や学校のグラウンドに残る足跡を見てるだけで楽しかったなぁ。

誰も踏んでない真っ新な所を見つけては、自分の足跡を残して訳もなく優越感に浸っていたものです。

これはきっと、壁に子供がいたずら書きする気持ちと同じなんだろうか?


 そんな雪景色を見るたびに、いつも頭に浮かぶ俳句があります。

景色を見ては俳句が浮かぶなんて、私には俳句の才能あり?なんてね!


雪の朝二の字二の字の下駄の跡



この句は、江戸時代の女流歌人 田捨女が僅か6歳の時に詠ったとされる俳句です。

ほんとかな?

6歳の子供にこんな句が詠めるのかいと疑ってしまうのですが、凡人の考えかな?
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少し前にそこを人が歩いて行った余韻も風景も伝わってくる、素晴らしい俳句だと思います。

なんて句だ!


俳句という素晴らしい文化然り、なんて綺麗で格好いいんだろって今でも思います。

しかも6歳の女の子が!


雪が降ったあとはランドセルを投げ出して、「雪だるまと かまくら を作るんだ!」

と元気よく外に飛び出していた私とは、きっと仲良くなれないタイプの女の子ではないかと想像してしまいます。(口が達者で頭の良い女子が苦手だっただけですが・・)


都会では降雪機会も少なく、しかも靴が当たり前の今、滅多に下駄の足跡にお目にかかることがありません。

だから好きなこの句を思い出すことも雪の降った時くらいです。

その他有名な“足跡”と言えば、

月面着陸したアポロ飛行士の“足跡” 
たぶん本物でしょう。人類の進歩と技術革新の賜物ですね。
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 ハリウッドのスターの手型・足型
新婚旅行で行った時に、成功者の人生にあやかろうと重ねてみました。
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 Mr. Children 「足跡~Be Strong」この曲に限らず、デビュー以来音楽業界に様々な足跡を数多くの作品で残している最高のグループだと思います。

足跡

私はこの “足跡”という言葉に強い生命力を感じます。


だから、たまに降る雪に残る足跡を見てはこんな事を想像するのです

・幼児から大人に成長してゆく過程にはどんな楽しい事辛いことがあったのだろう?


・人それぞれ、大切な思い出の場所はいくつあるのだろう?


・何度も岐路に立ってはその度に頑張ってきた人生の節目とは、いつだったんだろう?

 

足跡といって何を思い出すか?って聞かれたら、やっぱり私はこの俳句を思い出します。 雪の朝二の字二の字の下駄の跡


田捨女(兵庫県生まれらしい)が豪雪の地で生まれ育っていたら、きっと誕生していなかった句なのかな?と想像してしまいます。


話は現実に戻って、
現代ではその“足跡”が結構ビジネスになるんですね。

人のプライバシーに関わる探偵社。

とても慎重で時間のかかる仕事だと思います。でもあまりお世話にはなりたくありませんね。
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それから、時代を牽引しているかも?しれない出版社。

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最近話題の週間文春は、まさに人のプライバシーが商売になっているんです。

多くの情報に日々振り回されて嫌気がさしていても、読者にとって人のプライバシーは別腹なんですね。

そしてIT企業全般。

私達がインターネットで何か調べたり検索したりした時、入力した情報も足跡としてPCやネットの世界に残り、消えることがないことはいまや当たり前の事実。


ただ、インターネット上では“足跡” とは言わず「ログ」と呼ばれています。


「ログ」は自分で管理することは難しく管理ソフトもありません。


 ネット社会ではまさにその「ログ」を利用して商売することが当たり前なのですね。


IT企業は、まさにこの「ログ」をビッグデータとして集約し、様々なビジネスシーンで利活用しています。
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スマホで簡単検索した時にはその「ログ」はどこかのだれかに拾われています。


その「ログ」をデータとして蓄積し分析することで、私という個人の趣味や思考性、買い物履歴、住んでいる地域までを見事なまでに学習して覚えていてくれるのです。

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その結果、サイバー空間に残るログをデータとして常に更新してくれるお陰で、たとえ物忘れしても、過去のネットでの購入履歴や、過去の検索履歴から自分の頭では想像できなかった事や、関連情報もお薦めしてくれるようになるのです。


足跡には色々な種類あります


風情と捉えられていた下駄の足跡もあれば、行動で残した足跡、記録という足跡、人生の歩みという足跡


デジタル時代を上手く生きるためには、私の記憶の外部化として「ログ」は既に新たな足跡として追加されています。

 “検索や0101のログの後”

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地名は、先祖代々から受け継がれてきたその土地に、何らかの意味のある名前が付けられているのが一般的です。


だから今住んでいる地名にちょっと興味を持って、由来や意味を調べてみると面白いことが分かるかも知れません。

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そのことをイギリス地名協会代表だったマーガレット・ゲルリング氏(19241129日〜24日、2009424日)は「Signpost to the past(過去への道しるべ)という本で、その土地に住む人は、先祖の大事な地名を受け継ぎ未来に向けて継承していく必要があると言っています

古代ローマ人は、それぞれの土地が受け継いできたものを“土地の精霊”ゲニウス・ロキと呼んでいたそうです。


私の生まれた故郷にも、現在家族で住んでいるこの近辺にも、代々受け継がれたであろうその土地に縁(ゆかり)の地名だという事は何となく知っています。

地名には地域性が強すぎて、漢字そのものが全く読めない地名もあります。


よくクイズ番組で出題される珍名もありますよね。


1962年の住居表示法施行でそれまで日常生活・経済活動や行政事務の障害となっている地域が、町、字(あざ)の区域の合理化によって新しい地名が付けられまし。その結果、それまで使われていた地名が消滅しています。


既に国民の大半が旧地名を知らない世代になりつつあり、クイズ番組で出題されるとき以外旧地名を知らなくとも何ら困ることはないでしょう。近年では平成の大合併で多くの地名が消えてしまいました。



地名に限らず、代々受け継ぐと言うことを考えたとき、私が先祖から受け継ぎ、子供や孫世代に受け継ぐものは何だろう?って考えてみました。


そして孫に恵まれたことで、数百年、数千年、数万年、いや数億年の彼方のご先祖様から一度も途絶えることなくDNAを継承しているという事実に、気がついたのです。

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数億年前に存在していたご先祖様の遺伝子が、一度も途絶えることがなく今の私に受け継がれ、更に子供に受け継がれ、最近生まれた孫に受け継がれている。

奇跡の連続なんだと!!



いつもブログを書くときに考えることは、自分の頭の体操であり、誰かの役に立てているかもしれない等と考えながら、備忘録的に記憶やアイデアを文字に起こしています。

 

だから、ブログを書き続けることで、私という人間がその時々で何を考えどう判断して生きていたのかが分かります。

自分のブログを読み返しては推敲もしていますので、以前書いた内容が変更することもしばしばあります。
しかも紙と違ってデジタル化の最大の特徴は、サーバー上にアップしたデータが消えないことです。




漫画家手塚治虫さんの長女 赤塚不二夫さんの長女、水木しげるさんの次女が、仲良く対談共著本を出版しています。

「ゲゲゲの娘、レレレの娘、ラララの娘」その中で、赤塚不二夫さんの長女がこんな事を話していました。

 
「生きているうちはね、親子の会話ってないんです。今だったら生きていく上で抱えている悩みとか、父に相談したいとおもうけど、もうそれは出来ないでしょ。


だから作品の中で父が何を考えて、悩んでいたのか、大人になった自分が探す。必死になって生きていた人だから。


まけてらんないな、っていうメッセージは常にもらいますよね、作品から」



これを読んで、私が書くブログも、未来の子孫にとって、先祖の一人の人間が残す意味のあるものとして存在しうるのかも知れないなあ、と考えるに至りました。


 

文才の無い素人の私ですが、これからも様々なテーマについて考え、文字にして書き続けようと思います。


ブログは、過去への道しるべであり、生きていた証でもあります

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好きな人に本音を言っても嫌われないよう、曖昧で意味深な言葉を選び、いざ告白して断られたとしても言い訳を用意しているので傷つくことがない。


無責任な告白のようなものが日本人には効果的な広告メッセージではないかと思うのです。


26文字で全てを表現出来る欧米人に、曖昧なメッセージはNGです。



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昔、渋谷には恋文を代筆する商売があったと聞きます。


今時の女性は手紙をもらったらどう思うのか気になるところですね。


「重い」って言う?

「何本気出してんの」って言う?

「何様のつもり」って言う?

「キモいんだけど」って言う?



今でもその辺りは、その名残で恋文横丁と呼ばれ大衆の訪れる飲み屋街になっています。


公園通りとは真逆な猥雑なエリアですが、酒飲みが ああでもない、こうでもない等と、対話している声が聞こえてきます。


アメリカ人は一般的に物事をストレートに表現しますが、日本人は遠回しに言う傾向にあります。

私たち日本人は「奥ゆかしさ」とか、「控えめ」という言葉がそんな日本人を表現していることを頭で理解できます。


そんな日本人をアメリカ人は不思議がる。

日本人はなぜ間接的に物事を伝えるのか?


私が働いていた職場にもアメリカ人が在籍していました。彼ら彼女らに何か伝える時には意識して頭の切り替えをしたものです。


アメリカ人は言います。

「遠回しに発言すると問題解決が困難になる」

相手に対して何かしら変なことに気が付いたら、正直に伝えるのがアメリカの礼儀だと。その場で指摘すれば後になって恥をかかなくてすむと考えるのだそうです。


日本に住んで久しいアメリカ人がある実験をしました。


ある日、誰も被らないようなふざけた帽子を被って歩きました。

実際に何人の日本人がその帽子のことを指摘するか知りたかったからです。

結果、誰もその帽子について触れてきませんでした。


そのアメリカ人は友達にその帽子のことについて尋ねました。

最初は褒めらたそうですが、正直な意見を聞きたいと伝えたところ、友達は帽子を脱いだほうがいいと言われたそうです。


そして結論を出したのです。


日本人は相手を傷つけたくないから物事を遠回しに言うのだと。

自分の気持ちを伝えるために人に代筆を頼むことは遠回りかも知れない。
でもきっと相手を傷つけるような内容にはならないでしょう。

インターネットが私達の日常生活にとって不可欠になるに連れ、企業発のマーケティング活動の主戦場は、目に見えないサイバー空間にシフトしつつあります。


企業発のメッセージが、インターネットにアクセスする消費者にダイレクトに届くようになったのです。


相手を傷つけないで、相手のことを思い、思考を巡らせた表現をしているとは思えませんね。

ネット中心の世の中では、欧米人とは違って日本人は結構傷ついているのかも知れないですね。


その反動が他人の批判になってしまい、ネットがごみ溜めと化してしまってるのかな?

雑貨店のショーケースの中で何となく目に止まった5分の砂時計が気になり衝動買いしました。

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5分間、砂の落ちてゆく様子をじっと眺めていると、その静寂な時間が結構長く感じた。砂が落ちきる瞬間はえも言われぬ快感なのです。


高校生の時、美術の授業開始が5分遅れたことに対して、担当教師からこんな事を言われたのを覚えています。

「ここにいるクラス全員分が無駄をしたことになる。それは5分×35人=175分。 
それだけの時間があれば色んなことが出来る」

当時は、遅れたのは5分だけでなぜ175分と言われたのか、意味が分かりませんでしたが今は分かります。



実際、5分間で何が出来るのか?想像してみました。

 

F1カーは何周走行できる?
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散歩したら何メートル移動できる?
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クジラは何回潮を吹く?
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イルカは何メートル泳ぐ?
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渡り鳥は何海里移動する?
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文庫本何ページ読める?
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世界記録保持者のマラソン選手は何キロ走れる?
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ベートーベンの第九は何小節目?
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料理は何品作れる?
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タイピングは何文字打てる?
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十分仮眠出来る?
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腕立て伏せは何回出来る?
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山手線で渋谷から内回り、外回りどこの駅までいける?
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リフティング何回出来る?
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心臓の鼓動は何回打つ?
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最新の掘削機でトンネルの穴は何メートル進む?

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同じ5分間でも時間の価値は随分違うんですね!
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商売していると、良い話でも、悪い話でもお客様から直接意見を聞いたり、直接感想を聞いたり、又は間接的に情報が入って来ます。
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まともな企業なら、そんなお客様の声を大切に集計し、商品開発に生かしたり、サービスのあり方を見直したりと、日々生かす努力していると思います。


近年はSNS上で、消費者同士が交換する情報からも間接的に情報を得る機会も増えているのではないでしょうか。


現在私がお手伝いさせて頂いている企業の場合、オペレーターを介して直接対話から得られる情報が大半なので、毎日オペレータが直接肌で感じたり聞いたりした生の声ばかりです。
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褒めの言葉であったり、提案であったり、もちろん会社に対するクレームも含まれます。そんな情報は日々“お客様の声”として積極的な登録を推奨されています。


私もその昔、テレビ局やラジオ局を絡めたイベントを開催するときに、届いた応募ハガキに書いてきた文面には目を通したものです。

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当選したいが為にハガキの空白ビッシリと、商品への思いや企業そのものへ信頼の気持等をタップリ文字で埋めてくる人が多かった事が印象的です。これもある種、褒めだらけの“お客様の声”だったのでしょう。



広告主側にもハガキを渡していたので、ある程度目は通していると思いますが、数千枚のハガキ全て読む事はなかったと思います。


私の担当したある製薬会社の宣伝部長の場合、自らのモチベーションアップの為に、褒めの言葉の書いてあるハガキばかり読んではいつもご満悦でした。

 


今ではスマホ等のデバイスを利用して簡単に応募できるので、ハガキの様に空白と向き合ってどうすれば読んでもらえるのかなんて考えながら文字を変換するなんていう人は皆無でしょう。

 


デジタルデバイスのお蔭で、企業側にとっても山のように積まれるハガキではなく、データベースに取り込まれた数千・数万単位の応募データでも簡単に管理されているので、あっという間に会議に必要な資料作成が可能になっていると思います。


”お客様の声”は商品を実際使った消費者の声であり、商品購入前の潜在顧客の声でもあります。


 日常生活を過ごす上で、必要なものや本当に欲しいものなんてあまりないんじゃないかとも思います。


そこで、モノが溢れている今だからこそ、個人の消費行動に影響力ある要素の1つとして“お客様の声”が今まで以上に大きく関わり始めているような気がします。



インターネット時代の販売方法では商品ラインアップがロングテールにまで裾野が広がってしまったため、その分野の専門家に確認しないと自分では商品の良し悪しの判断が付かなくなっているのが本音ではないでしょうか。


特にニッチな商品の場合、専門家といわれている人たちの論評や評価と、数パーセントの使用経験者の声の大きさにかなり影響を受けているように思います。

 


ネットでモノを購入する生活が当たり前になっている今、買い物に失敗したくないのでお勧め機能を使ってランキングの上位のものを購入する傾向が強いと思います。




モノを販売又はサービスを提供する側は従来のように広告会社やマーケティング会社に依頼して広告しないと売れないのでしょうか?

実際広告しないよりしたほうが良いのは明確なのです。

でも、インターネットの日常生活への影響が強くなるにつれて、企業発のマーケティング情報が広告や記事という形式を問わず、数多くインターネットにアクセスする消費者にダイレクトに届くようになり、消費者はこうしたコミュニケーション活動に対して無視するか反発する傾向が強まってきているそうです。



消費者は、既にその商品を使用経験した生活者の言うことをより信用する傾向にあるそうです。それは失敗も含まれているからだと思います。


これは消費者がマーケターの声よりも、仲間である顧客同志の声を聴いて判断するようになったことを意味しているのでしょう。

 


つまり、“お客様の声”を一番聞いているのがお客様自身ということなのだと思います。

 


マーケターに求められるのは、消費者がつくったブランド・コミュニティを、消費者からの反発がない形でサポートすることなのかもしれません。


ハガキの様な形で置き場所に困っていた“お客様の声”は多くの企業が昔から採用してきた大切なデータベースの一つですが、AIの進化でさらに存在感を増しているように感じています。

IBM、MSN、アクセンチュアはAIの急激な進化とともにデジタル消費者に向けた次世代マーケティングを積極的に打ち出しています。

 

お客様の声”を丸ごと音声データ化してディープラーニングさせることで、商品品質やサービス品質で競争している企業同士の競合ステージの意味合いが大きく変わるかもしれません。
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アクセンチュア(東洋経済掲載広告引用)
http://toyokeizai.net/sp/170613techvision/sp/index.html


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バブル前夜台頭してきたアメリカ発のコンサルティング会社は、企業同士の合併や企業の組織改革に関わり多くの失敗を繰り返してきました。

昔私が担当していた企業2社もコンサルのお蔭で組織がズタズタになるのを目の当たりにしました。その一社は人とどんぶり勘定で成り立っていた放送局です。

データに基づく理想を絵に書きはしたものの、そこで働く人間の存在を拒否したからだとハーバードの教授が後に分析しています。


だから、AIでコンサル企業と組む時は、頭でっかちの頭脳集団や組織で働いたことのない若手担当者は避けることをお勧めします。


個人的な期待ですが、AIをベースに展開するマーケティングの未来であっても、感情を持つ人間がマーケティングを主導していることを望みます。

現在働いている職場での主な仕事内容は、悩める消費者との1対1の対話に始まり、最終的には消費者自ら意思決定を下して頂くまでのお手伝いです。
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対話の中で発生してくる予期せぬ課題や、相手から投げかけられた疑問に対して、納得頂けるような提案が出来るかどうかが私の力の出し所です。

相手が納得してお金を使うと決断してくれた時は気持ちいいですね!
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数分間の対話で、サービス利用の際のリスク案内もしつつ、相手には自らの思考回路で、論理的に納得して頂けるよう、脳を最大限に活性化させることも必要です。

言った言わないのリスクを減らすためには、
自分が決めたんだと言わせることが大切です。

当然ながら、相手のレベルに合わせた語彙を使い分けるスキルは必要です。

今は長いこと働いていたアドマン時代に語っていた「消費者」という存在に、直接触れることが出来ています。


消費者と直接話をして感じたことは、日本人は結構分かり合えるんだなあと思いました。

もちろん地元企業の知名度やブランド力が助けになっていることも大きいと思います。

 

さて、「対話」と「会話」と「討論」の違いについて

以前さとなお.comのブログで平田オリザ氏がこれらの違いを言い得ていたのでご紹介します。


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「会話」は親しい人同士のおしゃべり。

友達との会話は、具体的な答えを求めないでも話はどんどん続いてゆきますよね。
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「対話」は異なる価値観などをすり合わせる行為。

目標がはっきりしているときに、意見の違いや価値観の違いなどをすり合わせるとき
このような対話がなされますよね。
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参考までに、日本語の辞書ではどちらも向か合って話をすることなどとされ、区別がないと指摘しています。


「討論」は自分の価値観と論理によって相手を説得し、勝つことが最終目的になる。
負けた方が全面的に変わらないといけない。勝った方は変わる必要がありません。 


いわゆる西洋人が得意としていますよね。
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「対話」は、勝ち負けではありません。

価値観をすり合わせることによってお互いが変わり、新しい第三の価観とでも呼ぶべきものを作り上げることが目標になります。 



私の仕事はこの「対話」によるものなので、まさしく双方が納得出来るかどうかで決まります。


価値観が多様化した成熟社会では討論より対話が重要ですが、日本では、変わることを潔しとしない傾向が強いですね。どうしても勝ち負けの枠組みで考えてしまう。SNS全盛時代には受信より安易な自己発信が中心になる傾向が強いので二元論で片づけてしまいがちです。

平田オリザ氏はこれらのテーマについて今でも大阪大学で教鞭をとって教えています。



近年のマーケティング戦略において「対話」は非常に重要な役割を担ってきていると感じます。


企業内の社員同士の「対話」⇔ 社内コンセンサスの共有
企業とパートナーとの「対話」⇔ 共同作業での目的確認

企業と顧客との「対話」⇔ 満足度向上 ⇔ 新商品開発

顧客と顧客の「対話」⇔ SNS等を活用した商品情報拡散

 

又、最近「対話」が教育現場においても重視される傾向にあります。


早稲田大学が2032年を目標とした革新戦略の一つで 対話型、問題発見・解決型教育への移行を決めています。


これは一方的な講義中心の学修時間を海外の大学並の学修に移行するためのポートフォリオ自体を変えようとするものだそうです。


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教員からの一方的な知識の教授ではなく、教員と学生あるいは学生同士が意見を交わして授業内容の理解を深める対話型・双方向型授業は、受講生の多い講義科目においても取り入れられるようになってきています。

グローバル社会においては、正解のない問題に対して、自ら思考し論理的に説明する能力を身につける問題・
発見・解決型授業の必要性も高まっています。


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早稲田の核心戦略http://www.waseda.jp/keiei/vision150/core/04.html




「対話」を楽しむためには、自分の考え方と、相手の考え方の違いを認める所から始めないと、ただ無駄な時間だけか過ぎ去ってゆくでしょう。


先輩と後輩又は上司と部下が「対話」するとき、日本の歴史を振り返ると、有無を言わせぬ傾向があったように思います。

いわゆるパワハラです。

最近スポーツ界₍相撲・アメフト・レスリング₎で話題なのでお分かりですよね。


もはや過去の成功体験に頼っていては、グローバル化のスピードや、AI等の進化スピードに周回遅れでは済まされない所まできています。このことは、あらゆる分野の学者たちが語っています。

数十周、数百周の周回遅れに、もはやこれ以上離されないよう、教育現場で「対話」と「討論」に取り組んで頂きたいと切に願います。




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AIが夢の新時代を切り開いてくれるかのような情報が毎日毎日巷で溢れていますよね。


自動運転やOKGoogleはとても分かり易いAI技術の採用です。

 

確かに第3次産業革命と呼ぶに相当するのかも知れません。

 

でも・・

人の個人情報をただ同然で手に入れ、ストックしてきたその情報を元手に儲かっているのは運営する企業ばかり。資本主義経済が独占資本主義経済に逆行しているように思います。


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先日見たNHKのテレビ番組で、スウェーデンの放送局がアメリカのAI関連企業の経営者インタビューや、最新のロボットを導入した工場の責任者へのインタビューをしていました。

 

AI関連企業の経営者は、AIは人間の欠点を補うので自動運転で事故は無くなると言い切る。



企業経営者は、工場に1台の最新ロボットを導入したことで生産効率が上がり、しかも毎月の賃金を支払わなくて済むので、更にロボット導入に積極的だ。


それまで働いていた人間の次なる仕事は管理部門だと言うが、AIを管理するには高度な知識が求められる。もはや待ったなしで人間の仕事場がなくなっているのが見て取れた。

 

AIの導入で人間の労働力が不要になれば、これまでの資本主義経済では当たり前の、賃労働が不要になります。


アメリカでは47%の人間が職場からいなくなる可能性があると予測されています。人間が不要になった後、
一体誰が収入を得て、誰が製造されたモノを買い、誰が税金を納めるのか?

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 既に技術革新は人間が判断できない次元まできているといいます。

ホーキンス博士も2045年のシンギュラリティー問題には肯定的です。



インタビューに答えていた経済学者は、人間がAIの技術をどこにどう使うのか、制限をかけてゆく必要性を語っていました。

仕事を失った人間に新たな仕事を生み出す必要があるからです。

 

 

私の働いている企業でもインテリジェンス〇〇等といったIOT関連の事業が拡大しています。スマートスピーカーにOKGoogleと言えばネットワークに接続されている全てのIOT機器が反応して的確な判断をしてくれる。



人間が思考しなくなり、国家による監視社会で生きるようになる。レイブラッドベリの小説「華氏451」を思い出します。まあ、そんな悲観的な事にはならないと願います。

 

 

このまま行けば、子育てをもロボットに任せて、場合によっては進学相談や就職先支援までしそうな勢いです。子育てには、放任もあれば、スパルタもあり、多くの親はその中間を模索してうろうろしているのではないかと思います。

子供は乱反射しながら成長してゆくものなのです。


進学や就職にはそれまで生きてきた経験の蓄積や志向性でいくつかの選択肢が生まれてくると思うのです。

 


育つ環境によって様々な考えを持つ人間が存在していて、自分とは違う考えを持つ相手の存在を我慢しながらも
相手を認めながら生きて行くしかない。


そこに人間の面白さがあると思うのです。(山田太一さんや倉本聰さんの言いそうなセリフですね)

 

だから、私のように気が小さく嫉妬心の強い人間もいれば、寛容で懐の深い人間もいるから面白いのです。



人間は皆違うんだから、AIはここには入るなよっ、ていう領域は必要だと思います。

 

「人の心を知るためのロボット研究」というテーマで人間となにかを問い続け、それを知るための手段として、アンドロイドやロボットを生み出しているロボット研究で世界的権威の石黒教授。マツコデラックスのアンドロイドを作った人で有名です。
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インタラクションという日常活動型ロボットにおける課題を世界に先駆けて提案し、研究に取り組んでいます。音声認識、音声生成によって、人と会話コミュニケーションを行う、人との自然な対話を可能にしたERICA

 

石黒教授の作ったアンドロイドなら、人生のメンターとして活躍してくれる時代が来るかもしれません。

 

 

それでも最後に、そこんところのニュアンスは人間に聞け!って思いますね。



スマホにして良かったと思うのは、その場で気になったことがネットで直ぐに検索できたりその時に気になったものは写真や動画で撮影しておけば後で忘れても記録に残っていること。

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年を取るとどうしても物忘れが激しくなるらしい(まだ実感はないが・・)

そんな物忘れの対策としてスマホは記憶の外部化にはもってこいの代物なのです。

 

さて、そんな私が撮影している写真や動画には共通点があることに気が付いたのです。(だからどうしたって話ですが、私の記憶の外部化ということで書いておきます)

 

それは、自然の中に存在する普遍的なものが私の撮影する主な被写体であったこと。


具体的には、風・光・植物・水・野生動物等が主な被写体です。

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そんな自分の撮影した写真や動画を眺めながら、共通する言葉を捜してみたところある言葉が浮かんできました。

 

自分の感性にとてもしっくりくる単語がみつかったのです。

 

"ゆらぎ"

 

“ゆらぎ”の意味を色々と調べてみたところ、私のイメージした“ゆらぎ”の意味にぴったりな記事が見つかったのです。東京工業大学名誉教授 武者利光氏の対談記事にその答えがありました。

https://www.athome-academy.jp/archive/mathematics_physics/0000000230_all.html

 

“ゆらぎ”を定義するのは難しいらしいのです


“ゆらぎ”とは「ものの予測できない空間的、時間的変化や動き」と言っています。なかなか哲学的な表現です。

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以下、対談記事から抜粋してみました。


「“ゆらぎ”は、世に存在するすべてのものに表れます。


例えば、風は突然吹いて、そして突然止まることもあります。


風は不規則な動き、いわば“ゆらぎ”の代表格の1つです。

 

太陽や星などでさえ、やはり少しずつゆらぎながら軌道運動しており、決して一定ではありません。


大体の動きは予測できますが、細かいところまで完璧な予測はできないんです。


岩石も温度によって膨張、収縮しますし、中でも特に生物は、規則的な運動ができません。私達人間だってそうなんですよ。」

 

 

自然界には“ゆらぎ”が満ちており、人間の生体リズムもゆらいでいて、それがともに共振共鳴して心地良さをおぼえる“ゆらぎ”のことを“1/fゆらぎ”と言うのだそうです。

 


“ゆらぎ”とは、温度、音量、密度、周波数、速度、濃淡、力などを測定して得る観測値に対して、その統計的に見た平均値の近くで変動する現象と定義されています。

 


別の言い方をすれば、ある物理的な量や質が刻々変化する時、その量や質が平均的には一定の周期(間隔)を示しているように見えますが、
正確に測定するとわずかなズレが出ていることがあるのです。

 


その変化は微妙で人為的なものではなく、完全に予測できないような“ズレ”となっているのです。


この予測できないような“ズレ”が“ゆらぎ”であり、自然界をはじめ、様々な場で観測されているのです。

 

 

たとえば、自然界の現象を見るとその全てに変化があり“ズレ”てゆらいでいます。


星の瞬きは決してコンピューターで測ったように等間隔ではありません。


打ち寄せる海の波にも “ズレ”があります。


小川のせせらぎ、そよぐ風、木漏れ日、鳥の鳴き声、白銀の世界でキラキラ光る陽光、かげろうなど、自然界の現象にはみな“ゆらぎ”を見ることができます。

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心地よく快適で、人々に安らぎや幸せを感じさせてくれる自然界の現象の中には“ゆらぎ”が満ちてるそうです。人間の生体リズムもまた“ゆらぎ”を伴っています。

 


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分間に平均62回打つ心臓の鼓動(心拍リズムの間隔)や体温の変化、呼吸数にも“ズレ”があります。脳が感知して指令を出すと、微弱な電気パルスが神経繊維(軸索)に次々と指令を伝えますが、その電気パルスにも、脳波(特にα波)にも“ゆらぎ”があることが検証されているそうです。

 

 

さらに人間の行為や人間が作ったものもみな“ゆらぎ”を持っています。


手拍子にはメトロノ ームに見られない“ゆらぎ”がありますし、和太鼓の響きも同じです。話し言葉の中にも“ゆらぎ”があります。


そのほか、水墨画や浮世絵、切り絵などの輪郭をはっきり持った絵。


日本の伝統的な工芸品である織物や染物、漆器、陶磁器などの手作りで、美 しいとか、懐かしさとか、温かさを感ずるものは すべて“ゆらぎ”を持っているそうです。

 

バッハやモー ツアルト、ベートーヴェン、ビヴァルディー等の名曲や教会音楽、心に残る日本の歌なども“ゆら ぎ”が多く見られるそうです。


このような自然界にあって人間に和みを与えてくれる“ゆらぎ”を“1/fゆらぎ”と呼びます。

 

 

予測は規則性があるから出来るが、“ゆらぎ”はものの空間的、時間的変化や動きが部分的に不規則なのである。

 

なるほど!!

 

この記事を読んでふと思い出したことがある。


それはシンギユラリティの予測をしたレイ・カーツワイルだ。

 

氏は、情報テクノロジーに関していえば、指数関数的に変化していると言っている。(最近この指数関数というワードを目にする機会がかなり増えてきたと思う。特にAI関連記事や番組かな…)

 

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氏は、人間の脳が出来た大昔はあらゆる事が線形で変化してきたと言っています。


私達人間の将来予測は線形(比例直線の形)であって、指数関数的な曲線にはならないと言っています。なかなか難しい話です。


 

例えば、

あの動物はあちらの方へ向かって移動してるので、もしこの道を進んでいったらあの先の岩の辺りで出会ってしまうから、それを避けるためにこちらの道を行った方がいいと予測できる。

 

つまり、線形思考がサバイバルに役立ってきたので、それが脳の機能として定着していったと言うのです。


動物の移動スピードは一定で、移動スピードが加速し続けるということはなかったから、線型モデルがインプットされたというのです。


しかもそれでうまく役立ってきた。だからわれわれの将来予測も線形になっていると考えられる。

 

確かに!!

 

われわれの直感が理解する線形成長と、情報テクノロジーの現実が示す指数関数的な成長とは、どのように違うのか?

 

誰でも理解できる直線的な成長のほうは、1,2,3,4・・・と変化していくのに対して、指数関数的な変化は、1,2,4,8・・・となる。


たいして違わないじゃないかと思われるかも知れないが、30ステップを過ぎる頃には直感的な線形成長のほうは30なのに、情報テクノロジーが示す指数関数的成長のほうはして10億にもなっている。40ステップでは1兆に達する。ヒトゲノム解析はこの指数関数的スピードで見事達成したのです。

 

 

ある物理的な量や質が刻々変化する時、その量や質が平均的には一定の周期(間隔)を示しているように見えますが、正確に測定するとわずかなズレが出ていることがあります。

 

その変化は微妙で人為的なものではなく、完全に予測できないような“ズレ”となっています。この予測できないような“ズレ”が“ゆらぎ”で最も心地よいズレが“1/fゆらぎ”なのだそうです。

 


産業革命が現代社会の基盤であることは紛れもない事実です。


ここ数年の機械学習のスピードがAIを凄まじい勢いで進化させていることで、
私たち人間には到底追い付けないし予測不能な指数関数的なズレが始まっているような気がします。


2030年頃にはAIが人間の仕事の半数近くをまかなうと予測している学者もいますが、もっと早いかもしれませんね。

 

今日は人間に癒しを与えてくれるズレと人間の存在を脅かすズレについて考察してみました。


専門外なので、個人のアイデアだけで書いていることを記しておきます。

 

日本人とフランス人にはブリコラージュが良く似合う、

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素材そのものの特徴を理解したうえで、どのような組み合わせが素材を生かすことが出来るのか思考錯誤しながら最終的に新しい物を作ることがブリコラージュ

 

建物の場合、築年数の経過に伴って素材がどのように変化してゆくのかを予め計算して建てるのです。日本古来の建築技術の「木組み」「継ぎ手」「寄せ木」等はブリコラージュの代表です。

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「木組み」

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「継手」


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「寄せ木」

食べ物の場合、素材の組み合わせで見た目の印象と口に入れた時の変化を予測して調理するのです。日本料理とフランス料理はまさにブリコラージュ

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日本人が得意なのは

飛躍ではなく改良 創造性ではなく実用化

輸入自動車を分解してパーツの研究して性能を高める努力をした結果のトヨタ自動車
身体の小さい日本人にとって持ち運び安く移動に適したコンパクトなラジオやWALKMANを開発したSONY
簡単便利なインスタントラーメンを開発した日清食品
高度経済で忙しくしている日本人に3分待つだけのレトルトカレーを製品化した大塚食品
お風呂好きで清潔好きな日本人ならではの温水便座を改良したTOTO


地球儀で世界経済をみていた欧米人の思考回路には「この世の誰も見つけてないことを見つけること」あるいは「この世にないものを創造すること」それが、自国の幸せな社会をつくる、又は自社の優位性には不可欠なんだと考えているのだと思います。そのためにイノベーションが必要なんだ、という確固たるビジョンがごく自然に身についていたと思うのです。

数か月前に再会した後輩が切実に言っていたことを思い出しました。
「P.hD.を取っておくべきだった」と。彼女は東大を卒業した後、英国留学し、帰国してから私の居た外資系広告会社で暫く働いた後、転職して今の会社で働いています。恐らく、今の職場でP.hD.の有無に直面した事があったのでしょう。その時は何となく聞き流していましたが、このブログを書いている最中に記憶が繋がりました。

欧米や中国では、イノベーションに関わる仕事に従事する担当者は博士号を持っていないと認められないという風潮もあるようです。

日本企業は昔から、博士号を取った人間は生意気で使いづらいと思い込みがあるように感じますが、その時代は既に終わっていると思います。

シャープや日立が技術力で世界をリードしていた時代であれば、年を食った生意気な人間より、会社に従順でガッツがある人間の方が重宝されましたが、今は経営でも技術力でもイノベーションが求められています。

シュムペーターは経済が時間的に変化する過程、その理論モデルを構築しようとしたと書いています。「経済システムが自らを時間的に変化させる力」はどのように生まれるか。

巷で語られるイノベーションとはこの本質を理解してこそだと考えます。
日本人は得意なブリコラージュをもっともっと見直した方が良いと考える今日このこの頃です。日本独自のイノベーションが生まれるかもしれません。

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嬉しいことに、数年前から徐々に近視が回復してきていています。
数十年間お世話になった、コンタクトレンズやメガネがなくてもクッキリハッキリ見えるようになってきたのです。
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数年前まで視力が0.04(検眼時の一番大きな字が読めないレベル)だったのが、今では両目裸眼でおおよそ0.6位見えていると思います。

 

何と10倍以上視力が回復している事になります。


メガネの煩わしさや、コンタクトレンズのケアには飽き飽きしていましたので、もう夢のようです。奇跡です!

 
今では、職場から数キロ離れている東京タワーとスカイツリーの色と輪郭がくっきりと見分けがつきます。

10代で近視が始まりメガネをかけたり外したりの生活。社会人になってからはコンタクトレンズを併用。30代はほぼコンタクトレンズのみ。40代からは老眼も始まったので、遠近両用コンタクトを使っていたこともありましたが、値段の割に性能が良くなかったので近視用はコンタクト、老眼には老眼鏡を使い分けていました。
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近視の上に乱視で老眼なので、裸眼では2メートル先のテレビ画面に誰が映し出されているのかほぼ認識出来ません。これが数年前までは私には当たり前の生活でした。


そんな当たり前の生活から一変。


なぜ視力が回復してきたのだろうか?


幾つか考えてみましたがこれだ!と思う理由は思いつきません。

 

思いつくのはこんなところ、

-完全にタバコをやめて6年経ったこと。(20歳頃からずっとヘビースモーカーと呼ばれていた)

-風邪予防のため5年くらい前から毎日アセロラドリンクを飲んでいること。(のどが痛くなることはあっても、風邪はひかなくなった)

-サラリーマン時代にずっと纏っていたストレスから解き放たれたこと。(今の仕事は基本当日に完了なので引きずることがない)

-数年前から外食を止め自宅で料理し始めたこと。
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食生活に野菜を多く取り入れたこと。

-家庭で調理する肉はほとんど豚肉の極薄切りにしたこと。

-家の周りには緑が多いので散歩に出かける時には遠くを見て景色も楽しんでいること。

-老眼が進んだので自然に近視が改善。これはないなあ。

 

こうしてリストアップしてみると、ハードなサラリーマン時代と比べ、けっこう生活習慣に変化を加えてきたことに気がつきました。

理由はどうあれ、これらの生活の変化が複合的に作用しているのであれば、視力回復という目的はなかったことだが結果としては良かった。
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老眼は年相応だと思いますが、近視矯正にメガネやコンタクトレンズをかけない生活が当たり前になってきたのは本当にありがたい。


知人にこのことを話すと、奇跡だねって言われます。


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自動車、冷蔵庫のような耐久消費財であれば燃費効率化、耐久性、生鮮食品の長期保存力等に改善を繰り返せば消費者の満足は維持できる。

更には、IOTが次世代の改善の鍵を握っているので競合各社は付加価値に凌ぎを削っている。
かたや化粧品、飲料、食品のような非耐久消費財で特にコモディティー化した商品の場合コンビニでもネットショッピングでOKなので価格競争は激しくなるばかり。

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そんな中、私にとって非耐久消費財のコカ・コーラの商品価値はアイデアを含めたエンターテインメント料が大半だと思っている。

商品全体として私個人の顧客満足度は100%に到達している。


これはコカ・コーラが長年費やしてきたマーケティング戦略の結果だと思う。
最近巷で発生している商品偽装等の問題がない限りこの意識は変わらない。




以前日経ビジネスONLINEとのインタビューで日本コカコーラのIMCiマーケティング統括部長豊浦洋祐氏が、SCIENCEとARTを同時に実現しようと「IMC」と「対話」をデジタルメディアを利用して推進して行こうと語っています。



1対1の対話をいかに拡散して貰うか


世界で様々なエンターテイメントを実施しています。日本ではあまり見たことのないマシーンもあるので幾つか取りあげてみました。


「友達作り」のきっかけを提供する
キャップで友達ができるかもしれないプロジェクト

新入生が学校に行っても仲間がいない。話し相手がいない。

それならコーラがその機会を作ってあげよう

https://www.youtube.com/watch?v=F_epmCDgmvQ
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Coca Cola comes to campus!
ハグして!コーラをあげるから。
https://www.youtube.com/watch?v=io4715qIXgM
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Coca-Cola - The Happy Flag
空港に到着したらあなたの国の国旗で迎えてあげる!
https://www.youtube.com/watch?v=_BVfneC6dXY
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Coca-Cola | Máquina da Felicidade em Porto Alegre

たまには手渡ししましょうか!
https://www.youtube.com/watch?v=9kkH1Oh1m9g
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大量販売、大量生産で市場シェアを確保する旧来型カテゴリー商品であるにも関わらず、時代を読み、気持ちが伝わる、高いエンターテイメント性を取り入れ成功している、見事なコミュニケーション策だと思います。


ハーバード大学 セオドア・レヴィット教授 「近視眼的マーケティング」の一説

成長産業など存在しない

存在するのは消費者のニーズだけで、


いつでも変わりうるものである




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戦後最大と言われた伊勢湾台風が通過していった晴天の翌日、私は友だちと一緒に幅200メートルある地元の2級河川の様子を見にいきました。
そこで岸辺に流れ着いた材木の上で遊んでいるうちに、私はうっかり濁流に落ちてしまったのです。


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今でも泥の濁流の中から見た水面の明るさを鮮明に覚えています。流れの速い濁流の中を流されながら、もがいていると、突然誰かが私の首根っこをつかんで陸地まで引きずってくれたのです。

 

気がつくと家に運ばれ警察と地元の新聞社が取材にきていました。


助けてくれたのは、私の家の前に住んでいた韓国人のお兄さんでした。

お兄さんの弟と私は年が近かったのでよく遊んだりしたのですが、普段からお兄さんの姿を見ることはほとんどありませんでした。

 

地元の不良達と連んでいるらしいという噂は耳にしていたけれど、それから一度も会うことはありませんでした。

 


あれから、ずいぶん時間が経ってしまった。

 


大人になってようやく、自分は生かされたのだと気がついたとき、

お兄さんに、ありがとうを言ってなかったことを思い出したのです。

 


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ヶ月ほど前に妻がウィルス性結膜炎に感染してしまい、結構重症化してしまいました。徐々に両目が見えなくってしまい外出することも出来ず、対処療法はないと言われて、ただただ医者に言われた目薬でウィルスの増殖を抑えるのみ。

 

本人はかなり落ち込んでいましたが、私はただ、大丈夫だよと声をかける事のみ。二次感染を防ぐことに注意を払いながら何もしてあげられず過ごす日々。

 

今では以前と変わらぬ日常を送っていますが、このことで私の人生の優先順位がはっきりしました。

 

 

マークツゥエインの言葉にこんなのがあります。
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人生は実に儚いものだ

争いや、謝罪、嫉妬、責任追及などしてる時間はない

あるのは愛するための時間だけ

それも僅かな時間だけ

いい人生を送るためには言い人間関係が必要だ

 

人は中年になり、人生の残り時間が少なくなるにつれ限られた時間を意識する。

その結果、より自分を幸福にする選択するようになり、自分の幸福につながらない義務感でやってきたことを切り捨てていくそうです。

 

長年面倒くさいと思いながらも義理でつき合ってきた友人と会うことをやめたり、

不満を感じていた委員会の仕事を辞めたりと徐々に変わっていくそうです。


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夏目雅子さんが結婚したと知った時、相手の男を羨んだ覚えがある。

既に自分も結婚していたのだが、その男は作家で無頼漢のチョイ悪男(当時まだこのワードは存在していなかったかな?)と知り、この作家の作品は1度も本を読んだことがない。

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夏目雅子さんが亡くなった後、この作家は又もや私の好きな女優の篠ひろ子さんと結婚したという話は何となく知っていたが、当人に全く興味はなかった。

 

たまに書評で名前を目にすることはあったけれど、作品を手にすることは一度もなかった。

 


昨年のことだが、iPodにダウンロードしていつも聴いているラジオ番組に、この作家がゲスト出演した。聞くだけなら番組の流れで聞くだけだから、まあいいかって司会者との対談を聞いていた。

 

若かりし頃世話になった人々への感謝の気持ち、夏目雅子さんが亡くなってどん底に落ちていた数年間の気持ち、自らの生き方を淡々と言葉にして語っている。その他ゴルフが趣味で、一緒に回ったという司会者の話では回った仲間のスコアーをコース毎に全て記憶しているそうだ。これはなかなか出来る事ではない。

 

生声を聴いたその日、夏目雅子さんと結婚した男という理由以外に、明確な理由もなく毛嫌いしていた自分が恥ずかしく思えた。

 

伊集院静という男がどうして夏目雅子さんに愛されたのか、人として、男としての器の違いを痛切に感じた数分間だった。

 

昨日仕事に行く途中の公園で偶然見かけた子供たちの遊びの余韻の中に、伊集院静さんが浮かんだのでした。



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日頃は神事には無関心な私でも、何か願い事があるとき、相談したいとき、悩みを聞いて欲しいときは、先ずは地元の神社に行って手を合わせてお願いをします。


タイミングが合えば全国どこの神社でも手を合わせます。

 

人に何かお願いする時、突然押しかけて頭を下げる事の出来る相手は数限られます。

 

その点、神様は突然だろうが、何だろうが、兎に角お願いだけは聞いてくれます。行けば必ず話を聞いてくれる。そんな有難い人は他に居ません。

 

でも、よくよく考えてみたら こちらの都合で話を聞いてくれる相手がいました。

 

それは自分です。

 

日本人の場合、心の中か頭の中には誰にでも、神様()がいるのではないかと思います。

キリスト教やイスラム教は偶像崇拝を禁止していますが、日本人は小さな命と言えどその存在に向けて手を合わせることがあります。

神社は、神様と供に生きている私達人間がいつでも対話できる共有の場所として日本全国に存在しているような気がします。現在全国には無人の小さな神社も合わせると約8万社存在しているそうです。全国のコンビニ店舗数54800店と比較してもとても身近な存在なのです。


そこで交わされる対話は基本的には一方通行でありながら、時として答えを導くことも可能なのです。

 

人が神社にお参りする時は、一歩敷地内に足を踏み入れた時から、その神聖な場所で身を清められた自分の中の神様と対話をしているのではないかと思うようになりました。

日本人としての祭事は一通り行っているも、信仰心のない私がふと思ったお話です。



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10-20代の頃アウトローな俳優に憧れた

松田優作

萩原健一

 

わたしの考えるアウトローとは、

日本人が作り上げてきた世間という空気感や社会秩序に窮屈さを感じ、世間に抗い破壊的な生き方をする人。

 

広告の仕事で長年お世話になったテレビの世界でも枠組みを壊してきたアウトローがいました。大橋巨泉、前田武彦の二人です。


それまで台本ありきの予定調和だった番組進行を破壊し始めたのです。


彼らの破壊力を見守ってきたプロデューサー達も、放送基準の枠内で調整した手腕は凄かったんだなあと、改めて感心します。それまでのテレビ番組の作りや制約などの枠組みをどんどん広げていった時に一緒に枠組みを広げていったのですから。


ルールが壊されるのを見ていて気持ち良かったのを覚えています。


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チャップリンに憧れていた萩本欽一も又そんな破壊者の一人だった。台本のない緊張感で出演者の潜在的な能力を引き出していた。

全民放のゴールデンタイム全ての番組で視聴率30%近く叩き出したのです。

 


その後に登場してきたのが、ビートたけし、タモリ、さんま、所ジョージ。


彼らはLIVEで戦うことのできる言葉の破棄力をもったアウトロー。
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歳を過ぎた今でもその破壊力は健在だと思います。

 

台本のないLIVE進行の場合、番組プロデューサーは大変だったと思いますが、毎回予定外のドキュメンタリーのような番組に仕上がっていったように思います。

 

放送禁止用語もものともせず、見ているこちらがヒヤヒヤしながらも楽しめた。


ライブの緊張感はバブル期には遂にポルノレベルの映像がお茶の間に流れることになりに、番組制作側もようやく目が覚めた時には放送時間の自粛という放送業界にとって異常事態に追い込まれてしまったのです。

 

今では当たり前になっているバラエティ番組の生放送の基礎が、彼等の破壊力のお陰で出来上がってきたのだと思います。

 

 

好きな音楽の世界のアウトローの代表は吉田拓郎、泉谷しげる。


章節という枠に、言葉をどれだけ詰め込むんだと思うくらい詰め込んだ吉田拓郎。いつも会場にきている観客から帰れコールを浴びせられ、それに対して本人は意に介せず、兎に角バカヤロー!を連発する泉谷しげる。

 

金を払って見に来た客だろうが何だろうが、自分のやりたいように進める。

鈍感とかではなく、人の話を聞かない。単なるわがままし放題。でも人を傷つけることはしない。今でも健在です。素晴らしい!



そこで思い出すのがフィリップ・マーロウこのセリフ
日本語訳がかっこよかった

If I wasn't hard, I wouldn't  be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive


"
タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない"


気の利いたセリフを吐いてやせ我慢するのもアウトロー

アウトローと呼ばれる人からは漂う色気を感じます。

最近色気のある人に出会うことが少なくなってきましたがデジタル技術のお蔭で、様々なアーカイブを無料で見られるのは有難いと思っている今日この頃です。

放送基準の厳格化やBPOの設置で、アウトローは生まれ難くなってきたかも知れないけれど、アウトローには憧れる。




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進んでやるのは上の上

真似てやるのは中の中

言われてやるのは下の下

これは私が社会人として初めて入社した会社の朝礼で毎朝唱えた標語です。

多少言い方は古めかしいですが、今でも十分通用するごもっともな標語だと思います。

 

仕事でも、遊びでも、どんな場面にでも当てはまりますね。

 

進んでやるのは上の上は、人生の過ごし方としては強引にも見えますが、自らの意思を持って行動する事で責任を持つという意味を含んでいるので、良い事だと思います。

 

最近は年齢問わずこの様に行動する人は少なくなっていると感じます。
何か行動を起こすとき、先ずはネットで検索するのが一般的で、検索上位に上がってきたものが最大公約数的に失敗が少ない、と答えが出るので致し方ありませんが・・

 

先ずは真似てやるのは中の中が現実的なのかも知れません。




ところでこのコピーを目にしたり聞いたことはありますか?

 
サービスは独り言
ホスピタリティは対話

 

全米トップレストランでなかなか予約が取れない「ユニオン・スクエア・カフェ」や「グラマシー・タバーン」の創業者ダニー・マイヤーの書いた書籍「Setting the Table(邦題:おもてなしの天才)に書かれている言葉です。


意味は、サービスは技術的な要素でマニュアル通りにやれば誰でもうまく提供できるけれど、ホスピタリティはもっと感情的な要素で、お客様が何を望んでいるかを考え、行動しなければならないと言っています。

 


マイヤーの提唱するホスピタリティは提供する優先順位にあります。

 

まず従業員、次にお客様、そしてコミュニティ、仕入れ先、投資家だそうです。

 

私の人気記事トップの効率を犠牲にして顧客満足度を高めるに登場するノードストロームの逆ピラミッド組織や、星野リゾートのお客様担当に権限を与える経営方法とまったく同じだということが分かります。

 

2015年に東京・外苑前にオープンし、2020年までに全国10店舗展開を目指す、NY発ハンバーガーレストラン「シェイク シャック」

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星野リゾートほど値段の敷居は高くなく、お手頃価格なので、味を楽しむだけではなく、経営哲学も体感できるかも知れません。



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先日ラジオ番組のゲスト出演した小椋佳さんが自らの経験を話していました。

 

トイレに行こうとして立ち上がったものの、気がついたら風呂に入っていたなんてことがたまにあるのだそうです。

 

こんな話を聞くと「小椋佳もいよいよボケが始まったのかな?」と世間に言われがちですが当のご本人はけろっとしています。

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人間が歳を重ねるのは自然なことで、頭で考えたことと違う行動をとったとしても、それは恥ずべき事ではないと思います。

 

人それぞれ生き方や経験もちがうし、歳の取り方も様々なので違いがあってなんら不思議なことはありません。

 

小椋さんはこう言っていました。

「年寄り染みず、若ぶらず 」に生きたいものだと。

 

なかなかの名言だと思います。

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とかく人は年を取ると偉そうに過去の経験でものを言うことが多くなりがちです。

 

一人の人間が経験したことなんて、たかが知れています。

 

私にはもう一言付け加えた方がよさそうなのでこんな風にフレーズを追加してみました

 

「年寄り染みず、若ぶらず、無邪気な気持を失わず」


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広告会社に転職して数年経った1985年のある日、

社長が私の席の近くにやってきて質問してきました。

「〇〇君、最近マーケティングの定義が変わったようだけど何が変わったか知ってる?」

マーケティングの定義が変わった?知らない。聞いていない。慌てた!!

 

まだ商用のインターネットもなかった時代、広告事情は業界紙を読んでいないとほぼ知ることのない内容でした。

 

放送界、広告業界の業界紙は毎日のように社内で回覧されてきていたのですが、全国の放送局の人事や広告会社の人事、その他国内外の広告業界の制度面の変更や吸収合併等の動向が多く、いつもさらっと目を通す程度で多くをスルーしていました。



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電通報

きっとそれらの中にきっと社長の質問の答えが載っていたんだろうと思いながら「すみません、知りません」と恥ずかしながら答えた記憶があります。

直後に調べたところ、1985年にマーケティングの定義が変更されていることが分かりました。思えば、この時の定義変更が一番大きかったのでないかと思います。社長が私に質問してきた理由はそれほど大きな変更だったのだと後でわかりました。


アメリカで生まれたマーケティングという言葉は現在までに4回定義変更されたことになります。時代に合わせて粛々と変更しているのです。

 

以下が過去4回の定義変更の年度と本文です。

AMA(American Marketing Association)によるマーケティングの定義の変遷


1935年定義(AMAの前身である全米教師協会の定義)

Marketing includes those business activitiesinvolved in the flow of goods and services from production to consumption.

マーケティングとは、生産から消費に至る財とサービスの流れに関連する事業活動を含むものである。(参考訳例)

 

1948年・60年定義

Marketing is the performance of businessactivities that direct the flow of goods and services from producer toconsumer or user.

マーケティングは、生産者から消費者あるいは利用者に、商品およびサービスの流れを方向づける種々の企業活動の遂行である(参考訳例)

 

1985年定義

Marketing is the process of planning andexecuting the conception, pricing, promotion, and distribution of ideas,goods and services to create exchanges that satisfy individual andorganizational objectives.

マーケティングは、個人や組織の目的を満足させる交換を創造するために、アイディア、商品やサービスの概念化、価格設定、促進、流通を計画し実施する過程である。(参考訳例)

 

2004年定義

Marketing is an organizational function and a set ofprocesses for creating, communicating and delivering value to customersand for managing customer relationships in ways that benefitthe organization and its stakeholders.

マーケティングは顧客に価値を創造し、伝達し、引き渡すための、また組織やそのステークホルダー(利害関係者)を益するやり方で顧客関係を管理するための、組織的機能であり、また一連の過程である。(参考訳例)

 

2007年定義

Marketing is the activity, set of institutions, andprocesses for creating, communicating, delivering,and exchanging offerings thathave value for customers, clients, partners, and society at large.

マーケティングとは、顧客、依頼人、パートナー、社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり、一連の制度、そしてプロセスである。(参考訳例)

 


いまでこそマーケティングという言葉は様々な場面で使われている一般的な言葉ですが、言葉自体の使われる範囲が余りに広範囲に渡ってしまったので、意味が今一つピンとこないでふわっとした使われ方になっているように思います。


私が広告の世界に興味を持ったのは、学生の時に履修したマーケティング概論という授業を受けたからです。

紀州の豪商紀伊国屋文左衛門の「みかん船」の話を聞いた時、商売というものが、需要の有無、流通経路、販売方法、価格設定、季節性等の要素を組み合わせることによって予測可能だということを知り何て面白い世界だろうと思ったのです。

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今回改めてマーケティング定義の変更を読んで分かったことは、修正の度に個人から企業(株主)へウェイトが置かれてきているように思いました。


つまり、マーケティングというのは近年の解釈では株主価値を高めるために必要な企業活動ということなのですね。企業活動の評価基準でROIKPIが一般的に浸透してきたのも2007年頃だったかも知れません。

 

コトラーやドラッガーを読むと、マーケティングには管理やマネジメントが重要だと言っています。


私が長きに渡って属していた広告会社という組織は、管理とかマネジメントから遠い存在のように思いだされます。管理とかマネジメントから遠かったことで自由度が高く、今までになかったアイデアやクリエイティブな発想が生まれて来たのではないかと個人的に思います。

 

マーケティングの定義変更で思い出したのが、最近話題になっている電通に代表される日本の広告会社の労働時間のあり方です。私の働いていた広告会社は完全外資でありましたが、日本国内で活動している限りは日本の法律が適用されます。

 

ある時期から私の担当業務は裁量労働制が適用となり、業務として残業しなければならない場合は自己判断になりました。

会社は人件費削減のためこのような制度を適用させてきましたが、それは取りも直さずバブル崩壊後に増えた外資系広告主から要求された効率改善の結果だと思います。広告会社は楽して儲けていたのだからしょうがない、という声も一部にはありますが・・


広告会社の棚卸資産と言えばほぼ人件費しかありません。効率化のためには人を減らしながらも広告主の要求は更に増すばかり。

 


マーケティングの定義変更は、経済活動を時代背景に照らし合わせ現実と乖離し始めたころにようやく実施されているようです。マーケティングという概念の範囲が広範になったいま、広告会社が業務として抱えてきた業務の中には、もはや広告主にアロケート出来る管理やマネジメントがありそうではないかな何となく思います。利益にならない業務を手放すという判断が必要になっているように思います。

 

例えば日本で一般的になるか分かりませんが、プログラマティック・バイイングでリアルタイムな広告枠の自動買い付けをした場合、即座に原稿や素材の電子送稿をすることが可能になるでしょう。


これは広告主が一番望むところだと思いますので、この業務を広告主側に任せるのがマーケティング定義の管理やマネジメントに沿った業務改善の一つではないかと考えます。

 

デジタル化で時代は大きく変わりつつあります。近いうちに時代にマッチさせたマーケティングの定義が発表されることになるのでしょう。前回2007年の定義変更はネット社会を踏まえて変更していましたが、今は人工知能が個人の生活、個人と企業との繋がりをも変え始めていますので、そんな所が変更されるのかも知れませんね。



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デジタルネットワーク時代のデジタル広告では益々特定の個人に対してのアプローチが可能になってきました。

 

いつ?

どこで?

だれが?

何を?
何故?
どの様に?

どうしたい?

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私たち個人が毎日インターネットを利用することで、それらを時系列で集積したビッグデータと、進化し続けているディープラーニングがそれを可能にするのです。

 

これまで広告分析に使われていた属性分析、デモグラフィック分析、行動分析などはかなり高い確率で個人を特定できるようになるでしょう。もはや、そんな分析は不要になるかも知れません。


アマゾンで買い物した時のお勧め機能や、Googleで特定のワード検索した結果、嫌になるほど特定ワードに関連した広告を目にする経験は皆ありますよね。


これからは益々、私達が思考する一歩先を提案してくるようになるでしょう。
でも、考える前に提案されるとなると私はお金を用意して選ぶだけ?

もはや広告と言うより私達の思考・行動パターンを知りつくした水先案内人が消費行動を促してくれようになるのですね。顔認証技術の精度が高度化すれば、まさに特定の個人へのアプローチは鬼に金棒で、私は増々モノが増えるばかり。

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でも広告がどんなに無駄なく効果的な提案してくれたとしても、私は自分で考える時間がなくなるのは寂しいと思っています。

 

アナログ時代の広告には媒体(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌等)を介してメッセージの送り手と受け手に距離感のような余白部分がありました。


つまり、立入禁止区域には決して入らないという暗黙のルールが守られていたように思うのです。(アナログだから当たり前ですが)

 

最新テクノロジーの使い方が、広告と個人の間にあった余白を壊し始めているように思います。

 

テレビからしつこいくらい○○リバブルという不動産会社のCMが流れてきます。でも相変わらず私との距離は縮まっていない。だから不動産会社に嫌悪感は感じない。

 

やっぱりテレビCMが好きだなあ。 


  
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「自分の内部にある不透明なものを吐き出す行為、それが日記だ」

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なかなかこんなカッコい言葉は言えません。

横尾忠則氏が言うからこそ、言葉に深い意味を感じるんだろうと思います。

 

私も最近、いままでずっと曖昧にしてきたものが気になり始めていたので

この言葉はとても理解できます。少しずつ書いているブログはまさしく吐き出している行為なのかも知れません。

 


サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ!

日本が高度成長を突き進んでいる時にヒットした歌です。

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広告一筋だったサラリーマン時代には、業界内の常識は世間の常識と違うことは少なからず理解はしていましたが特に気にも留めていませんでした。



広告業界は日本経済をリードしている需要な役割を担っているんだ、という訳の分からない理屈で突き進んでいたのです。

 

最近になって、自分の内部にある曖昧なもの(違和感)を考えるようになったのは、歳をとったせいだと思っていたのだが、どうやら私個人の短い歴史だけでは語れないもっと大きい変化がうねり始めているように感じるのです。

 

1979年「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というベストセラーが生まれたとき、世界の中心は勤勉に働く日本人にありと思っていました。

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しかし、その後グローバル時代に突入してからの日本は徐々にその存在感は薄れるばかり。欧米の金融資本主義がこの国の土台にある多様性溢れる伝統文化を否定してきたからに他ならないと思うのです。

 

日本は今海外からの旅行客が増えています。

その最大の理由は、先端技術立国でありながら世界に類のない独自文化や伝統が共存しているからだとも言われています。

 

国内最大の広告会社である電通も又、グローバル化を推し進めた結果、世間とのずれや常識の違いが改めて露呈したのではないかと思います。

 

電通は1970年代に 「日本を発見し、自分自身を再発見する」をコンセプトに「ディスカバー・ジャパン」を成功させました。

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改めて電通が「自分自身を再発見する」をプロデュースする時が来たのかもしれません。そして又日本の広告業界をリードしてしていって欲しいと願います。


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年が明け正月三が日の行事を終え、七草粥を食べ、幕の内が過ぎたところで鏡開きでお汁粉をいただく。


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そんな正月気分を十分味わったところで、今日は通常の生活に戻るために必要な食材を買いに近所のスーパーに出かけたのです。


そこで目にしたのは、な、なんと!


バレンタイン用のチョコレートの陳列の山、恵方巻きの予約カード、節分、受験生用の合格祈願を銘打った各メーカーのお菓子の山。


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10月末に日本全国で盛り上がったハロウィンのイベント、12月のクリスマスイベント、そして正月の年越しイベントを終え正月気分も終わりかけたタイミングで次なるイベントへの招待。スーパーやコンビニの手際の良さには感心します。



おそらくこんな短期に気持ちの切り替えも飾り付けも前日までの宴が無かった様に対応するのは日本人しかいないんじゃないかな?

 

毎年繰り返される恒例のイベントへの誘いですが、何故かこれらへの消費支出に嫌悪感はありません。

と言うより私はしっかりイベントに参加しています。

形式的とは言え、チョコレートを貰うのはとても嬉しいです。

しかも手作りなんて聞いたら大いに勘違いしてしまいます。もはや妄想の世界に浸ってしまいます。

 

どうして日本人は日本の伝統文化とまったく関係のない海外の風習や伝統文化に根付くイベントを抵抗なく受け入れることが出来るのだろうか?


最近ではカレンダーの年間イベントスケジュールに印刷され、既に恒例化したイベントであれば、その時ばかりは財布の紐は緩んでしまうのです。

 特にここ数年のハロウィンの過熱ぶりには驚くばかり。

恵方巻やキットカットは近年になって年間イベントスケジュールに組み込まれるようになった縁起担ぎ的な比較的新しいイベントです。

 

何故日本人はそんなにももやもや感を何年も引きずってきましたが、年末にNHK Eテレで4回にわたって放送していた~100DE名著~レヴィ・ストロース「野生の思考」を録画してあったので、年明けに再度見直したところ、 

これだ!って思ったのです。

つかえていた何かモヤモヤしていた思いがスッキリしたのです。

レヴィ・ストロースのことを全く知らなかったので早速図書館で何冊か借りて読んでいる所です。クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)1908/11/28 - 2009/10/30

フランスの社会人類学者、民族学者。
1977
10月から11月、19864月の他に数度来日し、講演・シンポジウムや日本の学者らとの交流を行っている。日本文化を高く評価する親日家であり、1993年春の外国人叙勲で勲二等旭日重光章が授与されている。

 それは、レヴィ・ストロースが発見した日本料理にみるディビジョニズム(分割主義)です


ディビジョニズム(分割主義とは、

例えば刺身は自然素材を切っただけで調理せず、そのままの状態で並べて食べます。魚は混ざらないよう配置されているのです。

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日本人は味が混ざり合うことを嫌い混ぜ合わせは食べる人が口の中で行うのを好むのだそうです。素材を分割してレイアウトするディビジョニズムが日本料理を美しく見せるというのです。

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そして、自然の素材を最小限の調理だけで並べる日本料理こそ「自然の人間化」であると分析したのです。

 

かつて、ヨーロッパでも自然と人間が共存してコミュニケーションをとっている時代があったが、19世紀の近代工業化が始まると自然と人間を分割して自然は科学技術文明の利用すべき支配対象へ移り変わってしまったのだそうです。

 

日本においても明治期に近代科学文明を積極的に取り入れていったけれど、日本人は自然と人間を分割するという考え方を受け入れることがなかったとレヴィ・ストローは分析しています。

 

日本人は弥生時代から稲作を始め、水田を作るために土地をならさなければならなかった。

ある意味大きな自然破壊を行ったのですが、そこには自然の持つ自発性を生かしながら最適の環境を作り出そうという努力によって作られてきたのです。

その結果、美しい里山が生まれたのだと、レヴィ・ストロースは明らかにしたのです。

キリスト教が生活の土台にある西欧人ならではの考察で、日本人にはこの様な分析は不可能ですね。

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そして、日本人は自然と人間を分かつことなく仲間の様に感じながら文化を築いてきたと結論付けたのです。


日本の原風景そのものが作られてきた理由をレヴィ・ストロースは私たち日本人に教えてくれたのです。

 

そしてこんな言葉を残してくれたました。

 

過去への忠実と科学技術がもたらした変革のはざまでおそらくすべての国の中で日本だけがこれまである種の均衡を見出すのに成功してきました。

日本の人々が、過去の伝統と現在の革新の間の得がたい均衡をいつまでも保ち続けられるよう願わずにいられません


それは日本人自身のためだけにではありません

人類のすべてが学ぶにあたいする一例をそこに見出すからです

 


最澄と空海が平安時代~鎌倉時代に仏教ブームを起こしました。


仏教には多くの経典があり、どう解釈するのかは、どこにポイントを置くのかで違っているのだそうです。


中国の仏教では「すべての心ある"生きもの゛には仏としての性質(仏性)がある」と解釈されていますが、この"生きもの゛には草や木は含まれていません。

 

しかし日本の仏教では草や木にも仏性があると考えて日本独自の仏教が誕生しているのです。

そこには縄文時代から日本人の心の奥深くに脈々とある、自然全てに神々が満ちているというアニミズムの考えがあるからだと考えます。

 


話しをディビジョニズム(分割主義に戻すと、日本人は自然崇拝を源流とする多宗教民族であるが故に全く文化の異なる祭事でも、宗教でも、食文化でも、築地市場に並ぶ海産物や野菜などと同じく綺麗に色分け分割して並べ、共存させることが出来ているのではないかと気がついたのです。


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食文化だけみても、世界中の食が和食と共存していて、しかも私たち日本人は全く違和感なく食べ比べているのです。

まさにこれはディビジョニズム(分割主義の表れではないかと考えます。

ハロウィンで盛り上がれるのもディビジョニズム(分割主義)が働いているのではないかと思います。

恵方巻きも関西方面の風習でありながらディビジョニズム(分割主義)で今や日本全国に広がっているのではないかと考えます。

日本人が大好きなコンビニも、まさに経済活動の多くをディビジョニズム(分割主義)で整理されている伝統文化の集結場所なのかもしれません。

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築地市場やコンビニが外国人に人気があるのは、直観でディビジョニズムを感じてもらえる場所なのかもしれませんね。


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自然界と人間界の分断によって発展してきた西洋発の産業革命が、世界を成長させてきたという考え方に批判的なレヴィ・ストロースは、日本文化は野生の思考と高度に発達した科学技術が同居した稀有な文化だと結論付けているのです。
 

日本人が高度成長時代を謳歌していた1977年に69歳で初来日して短期間の滞在でこの国の本質に気づき、変わりつつある日本人に対して残してくれた言葉が身に沁みます。

経済や社会が不安定な時に民俗学や哲学的な学問が見直されるそうです。

まさに今の日本です。

4年後の東京オリンピックの時にはどれ位の外国人が来てくれるのでしょうか?日本人の野生の思考が健在であることを望みます。


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DE名著の司会者伊集院光氏が「野生の思考」に基づいたダイエット本が出ればすぐに買うと言っていました。一般的なダイエット本はカロリー信仰があって科学的アプローチをしているが、野生の思考を基に上手な本が出来たなら、長く続けられるのではないかと言っていました。

私にとってレヴィ・ストロースには学ぶところがとても多いので、しばらく本を漁ってみようと思います。

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通勤電車の中を見回すと、多くの乗客がスマホを覗き込んでいる光景が目に入ってきます。

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ヤフーや他の情報キュレーションサイトで直近の情報を仕入れているのかな?

Twitterを見ているのだろうか?

Facebookで友達にいいねしているのだろうか?

LINEのグループ情報を見ているのだろうか?

 

これらの行動こそ、日本人が社会と自分の一定の距離を保つために行っている
「世間」という安全地帯の更新ではないかと思うのです。

 

日本人にはキリスト教やイスラム教のような民族共通な神がいないため、共通な信念や価値観はそれぞれ違っています。

 

その代わり「世間」という実態のない空気のようなもので繋がっているのだと思います。

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世間話

世間体

世間に合わせる

渡る世間は鬼ばかり

世間並み

世間の目

世間のしがらみ

世間知らず

世間の常識

世間は広い・狭い

世間の噂

世間の風当たり

 

日本人の大人も子供も空気を読むのが得意なのは「世間」のお陰なのだと個人的には考えます。

 

情報過多の世の中を生きる上で、自分の判断が合っているのか、間違っているのか不安になることがありますよね。

相談する相手やご近所付き合いもない 。さて?

スマホで登録している各種サイトで今日も世の中と自分の距離を更新出来た!
今を生きる自分にとって必要な「世間」の更新完了 

インターネット時代の「世間」はこんな方法でも手に入れることが可能になりました。

これからのマーケティング戦略や消費者インサイト分析に「世間」は不可欠ではないかと思います。でも外資系企業ではあまりにも抽象的な概念で不採用でしょうね。

今こそ日本企業のチャンス到来!




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子供の頃、学校から真っ直ぐ家に帰るなんてもったいなくて出来なかった。


冒険

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何か新しいモノを手に入れられるのではないか?

新しい何かを発見できるのではないか?

河原に宇宙人が着陸してタイムマシーンに乗せてくれるのではないか?

偶然フランス人形のような可愛い女の子に出会うのではないか?

いつもこんな妄想しながらワクワクして半径500メートル圏内を寄り道して帰ったものです。


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無駄にした時間がとても楽しい時間になると、大竹まことさんがラジオ番組でこんな話をしていました。

 

「今までに食べたものでまずかったものについて話し始めると、面白くて笑いが止まらない」

それを聞いた時に、すごくわかるなあと思いました。


結果として食べたものがまずかったのであって、まずいのがわかっていたわけではないので、いかようにも理由が付けられるのです。この言い訳三昧がコミュニケーションの素になるのです。

グローバル化という大義名分のもとで無駄な手続きや効率の悪い工程が排除される傾向にあります。そんな傾向が身近なエンターテイメントの分野にも及んでいる様に思えます。

 

理由もなく気持ちが高揚したり、心が熱くなったりするシーンがなくなってきていると思うのです。効率化で感受性の劣化は進んでいるのです。


どこか不条理であったり、言葉に尽くせない感情が湧くことがないのです。

最近のテレビや映画を見ると、心に引っ掛かる場面や、考えさせる場面がなくて、本来エンターテイメントに不可欠だった楽しみの部分が奪われている様な気がします。


正しいのか、正しくないのかを論じると息苦しくなるけれど、好きか嫌いかで生きると自分らしくいられるような気がします。

不条理で思い出したのがサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」


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ここ数年日本を訪れる観光客がずいぶん増えていて、政府としても観光に力を注ぎ始めています。国内の経済活性にはとても喜ばしい事だと思います。

個人的には、2020年の東京オリンピックにどれ位の外国人が来てくれるのか楽しみです。

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さて、外国人が来日した時にもっとも苦労する日本文化の一つに単位があります。

そこで問題です。
下記の○のなかに入る言葉を全て埋められますか?

1.りんごを5○ください
2.キュウリを3○○ください。
3.
サンマを7○○ください。
4.
イカを3○○ください。
5.
靴を2○○ください。
6.12○○○
の色鉛筆が並んでいる。
7.
牛乳を1○○買う。
8.
ポテトチップを2○○○ください。
9.
(はかま)2○○試着してみる。
10.
箪笥(たんす)1○○運ぶ。
11.
馬が1○○走っています。
12.
うさぎが2○草を食べています。
13.
水を1○○ください。
14.
家が1○○立ってます。
15.
ニワトリが5○庭にいます。
16.
マグロが1○○泳いでる。
17.
マグロを1○○買う。

18.マグロを1○○食べる。


日本人でも買い物する時に、これらの単位を正しく使い分けている人は少ないのですよね。知識として知っていても、実際に使う機会は減っているのでないでしょうか。




英語はTHEやAという観念で使い分けるが日本語にはない”

日本語は状況に密着しやすく、物についてくる”

物を追いかける力が強い反面、コンセプトを追いかける力が弱い




こう分析するのは青山学院大学の小林康夫教授です。

マグロの例が一番分かり易いですね。

釣った状態のマグロは1匹
加工され店頭に並んでいる時には1さく
小皿からハシで口に運ぶ時には1きれ

まさに状況に応じて単位が変わっているのです。
小林教授の分析に目からウロコです。


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1さく


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1きれ


又小林教授によれば80年代以降、指数というのが日本人の生活のあらゆる分野で取り入れられてきたそうです。80年代と言えばまさにバブル期。当時生まれた代表的な指数で今でも使われているものもありますが、そんな指数あったんだと笑ってしまうものもあります。



洗濯指数、傘指数、お出かけ指数、紫外線指数、不快指数、ビール指数、アイス指数、スギ花粉指数、部屋干し指数、冷房指数、のど飴指数、重ね着指数、星空指数、等々。


 

当時の日本人には数字に根拠があると思えるようになってきた頃だそうです。高度経済成長を経験したことで、数字は皆が納得しやすいのだと気が付き始めたのでしょう。

 

80年代と言えば私の過ごした広告業界もバブル時代まっしぐらでした。

1960年代までどんぶり勘定だった日本の広告業界に欧米型マーケティング理論が黒船のように来航し、数々の広告用語や広告評価指数を教えてくれました。


様々な指数を操ってはマーケット予測をしていたものです。

知的水準の高い日本のマスコミ人達のお陰で、欧米の広告理論が徐々に業界に受け入れられていった記憶があります。これも小林教授の言う、80年代は数字には根拠があると思うようなり、皆が納得しやすいと感じたからなのかもしれません。

 


話を戻して、自己責任を重視する国にとって指数をあてにし過ぎる日本人というのはイケテナイそうです。つまりNOT COOLだそうです。

 

天気予報の降水確率がいい例です。
天気予報士が夕方の降水確率は40%くらいなので傘を持って行った方がいいと言ったら、確かに傘を持っていきますね。私の場合、長傘にするか折りたたみにするかを考えます。


そんな光景を見た外国人には、天気予報士が日本の第二のお母さんに見えるのでしょう。傘を持って行けと言われなくても自分で判断するのがCOOLということなのでしょう。しかも予報が外れた時には第二のお母さんに文句もいうので更にNOT COOLかも知れません。

 

その他指数とは違いますが、なんでも100という数も一般ですよね。

日本名山100選、日本名水100選、日本の絶景100選、平成の名山100選、日本の道100選、日本の名湯100選、日本の桜100選、日本の駅そば名店100選、等々

 

外国でも似たような表現はあるようですが、だいたい上から3番目くらいまでだそうです。お隣の中国でも四大古典文学、四大名山のように決まっていて、誰でも同じ答えを言えるのが普通だそうです。国によっては100も選んだら、ほぼ全部になってしまいますね。

 

100という数字自体に意味があるのではなく、お百度参りのように100回お参りすれば何か願いが叶うとか、100番以内に入っていれば良いことがあって、何か奇跡が起こるのではといった安心の数字で日本的合理性かも知れません。


日本語と数の関係なんてあまり考えたことがなかったのですが、小林教授の分析はとても分かり易く腹落ちしました。


100は縄文時代から脈々と受け継がれてきた日本人の社会性、生活感、宗教感、モラル、共通価値等に埋め込まれたマジックナンバーと言ってもいいかもしれませんね。

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合理的なアメリカ人にはきっと、マジックナンバーは多すぎでしょうね。


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最近ものを買って所有するより体験や思い出を重視する人が増えているそうです。ものが売れなくなって久しい日本においては顕著な現象のようです。


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体験を通じて思い出、感動、満足感を味わう感覚的価値のことを「経験価値」といい「経験価値」を消費する事をこと消費と言います。


よく言われているのが、「感動体験」がそれにあたるようです。 


ものは消費するけれど、体験などの記憶は色褪せることなく想い出として残るのでそう呼ぶそうです。


なるほど、とても分かり易いですね。


私にとっての感動体験で1番記憶にあるのは中学生で行った京都奈良修学旅行での様々な思い出かなぁ。


教科書で教わった日本の歴史には殆ど興味なく、皆で規則を破って遊んだことが鮮明に思い出されます。


規則を破ると言ってもそこは地方の田舎中学生、就寝時間過ぎて消灯後も寝ずにワイワイと部屋で遊ぶ程度ですが^_^;


それから暫くして「皆で渡れば怖くない」が世間で流行ったのです。

時代背景に子供達のある種社会に対しての自立みたいな、そんな空気感があったのではないかと思います。


そんな若者たちの気持ちを「赤信号皆で渡れば怖くない」と言い切ったビートたけしは素晴らしい時代の代弁者だと、今でも思います。



別に修学旅行でなくてもよかったのですが、親や教師のいない仲間たちの集まる場には“いたずらしてもいいよ”って空気感があったように感じました。

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人は時と場合によって財布の紐の緩み方が違います。


普段節約している人が国内でも海外でも旅行に行くと、何故か気持ちが大きくなるのか、どんどん買い物をしてしまうことがありますよね。


修学旅行に行ったとき、いつもなら全く欲しくもない物を買ってしまったという経験はありませんか?


私の場合、親に宇治茶と居間に置く京都タワーの置物を買ったことを覚えています。理由は単純で、土産物売り場の目立つ場所に、これこそ京都の土産です!ってアピールしていたからです。


今時、京都奈良で買う土産物といえばどんな物があるのでしょうか?


ネットで調べたところどちらもスイーツや和菓子等の食べ物が上位を占めていることが分かりました。


まさに“もの消費”そのものですね(^_^)b


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人は日常の生活の中で生活費と特別費を使い分けていて、これを経済学でメンタルアカウンティングと言います。


同じ金額でも入手方法や使い道で重要度を使い分け、自分の中で扱いを変えているのですね。


この気持ちはよく分かります。



さて、従来のもの売りをメインにしたビジネスから、こと消費に対応したビジネスに少しずつ転換していきたいという企業が年々増えているそうです。



もはや楽天がネットで売っているコモディティー商品を実店舗で販売しようと競争しても勝ち目はないでしょう。


つまりマルチチャンネルでの販売を余儀なくされているため、市場価格を管理出来なくなっているのです。


こと消費とはもの作りをする企業が、納品後のアフターメンテナンスなどのサービスで儲けるという考え方に少し似ているかも知れません。


以前ブログで書きましたがコカコーラのCMを見ていると体験型消費エンターテイメントに力を入れているのがよく分かります。スプライトを単に清涼飲料水として売るのではなく新しい科学技術を利用したウォータースライダーを一般の人に体験して遊んでもらう。ただその体験をしてほしい。それを提供しているのがスプライトなんですね。


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記憶に残るような感動体験をして経験価値を残してもらおうと言うことでしょうね。


残念ながら日本国内では下記の写真の規模はなかったようです。

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似た様な商品なら感情に訴えた方が相手には心が伝わりやすい。


想像力を持ってとれだけ相手のことを愛情もって接するかが近年の行動経済学の特徴なようです。「感動体験」はその一つの手法ですね。

感動体験と言えば!
オリンピックで盛り上がった今年の渋谷は更に盛り上がるでしょう。

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この10年ほどで私たちの選択肢は急激に増えました。

インターネットを通してなだれ込む他人の意見
欲を刺激し続ける巧妙なネット広告やテレビCM

そうした影響から、あれもこれもと手を出す感覚が蔓延し、
何が大事で何が大切でないかを見分けられなくなっています。

 
しかも、のべつ幕無しに時空を超えて
無料で繋がりを手助けしてくれるコミュニケーションツール会社があります


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Windows

Google

Twitter

Facebook
LINE

発展途上国向け無料配布のChromeブック

 

これらの企業が開発したソフトウェアやアプリケーション
は便利だし、もはや無くてはならない存在になりつつありますね。

 

目の前にいる友達とおしゃべりして、
お茶を飲んで楽しい時間を過ごした後


「じゃあまたね!」と別れた後、
目の前で見たことをLINEで報告し合ったり

電車の遅延が発生したらTwitterにあげたり
Facebook
のウォールに写真を投稿してみたり

 

これらの企業の無料ツールのお蔭で繋がりの連鎖
は途切れることがありませんが皆さんお疲れではありませんか?

 

バブル経済の頃の代表的テレビCMでリゲインの
“24
時間働けますか~を思い出します。

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低成長の現代でもこんな飲み物が若者に
人気があるようです。

ネット全盛時代の皆さんも、バブル時代とは違うお疲れを感じているのでしょうね。


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確かに、ネットで繋がっていれば一人寂しく感じることはない
のではないでしょう。でも脳は休みなしです。

さて、エッセンシャル思考って言葉を知っていますか?
書店でこのタイトルを多く見かける時期もありましたね。


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重要な仕事を見極め、それ以外の仕事は計画的にそぎ落とすというのもので、時間とエネルギーを効果的に配分し、「より少なく、しかしより良く」を追求することで最高のパフォーマンスを発揮しようという考え方だそうです。

そのためには、ときには電話もメールもシャットアウトして、考える時間を意識的に作ることが大切だと言っています。
 
実感として 「睡眠」は体調を整え、脳のパフォーマンスを高めるために必要なものだし、「遊び」は脳を創造的にし、ストレスを軽減してくれると思います。

何かを選ぶには、何かを捨てなければいけない。


自分にとって重要なことと不要なことを見極め、どう生きたいかという「本質目標」を定めることがエッセンシャル思考の最終目標だそうです。


どう生きたいかという「本質目標」を定めるためにも、たまには一人でぼぉーとして過ごす時間を作るのが良さそうですね。


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ポールオースターの「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」に対して、内田樹と高橋源一郎が実験した「嘘みたいな本当の話」日本版ナショナルツルーストーリー


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この実験を通して、改めて日本人の宗教感の無さが分かったと話している事に納得ができました。


良い悪いという話しではなく、日本人は世間という皆が同調できる空気を上手く利用する才能が身についているらしいのです。

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多宗教の日本では皆に共通する絶対神という存在が無いため、悪そのものを直視できず、何か問題が起こった時には世間の出来事として処理する能力が身についているのではないかと分析しています。


つまり、とても怖い話のはずの話が世間にある話として処理されてしまうので怖くなくなってしまう。



直接飲むと濃すぎるけど世間というフィルターに通すことで飲みやすくまろやかになるというイメージでしょうか。

 

ふくしまの原発事故で人類史上最悪の放射能漏れ事故が発生しましたが、一神教の国であれば放射能は『絶対悪』として扱うだろう。それは対峙できる『絶対善」の神がいるので原子力は『絶対悪』として排除したとしても国民の理解は得やすいのではないかとも言っているのには何となく納得してしまいました。



3.11の事故直後のドイツ原発中止の判断は早かったですね!きっと何年も議論を交わしてきたのでしょうが、放射能という『絶対悪』が姿を現したことで脱原発派の後押しになり国民の同意を得るのは容易かったのでしょう。

 

日本の現状はといえば、原発はクリーンエネルギーでコストも安く、原発のある地元市町村にには莫大な金が給付されるので早く再稼働して安定供給源として定着すれば悪い話ではなくなっていく。

原発が一神教の『絶対悪』という認識で一致することはないでしょう。充分な議論もないまま以前の様に再稼働しているのです。



明治維新以降、宗教はもちろんのこと明確な哲学がないまま欧米文明に追いつき真似ることで、鎖国で置いて行かれた数百年の時間を取り戻すことだけが目標になっていました。結果として先進文明には追いつき追い越したけれど、元々日本人の精神構造には合致していなかった一神教の西欧文明に誤魔化しながらも合わせてきたけれど、ここ30年くらいの間に、遂に日本人には耐えきれず、様々な形で問題が吹き出し始めているような気がしてなりません。


特にグローバル化は日本人の生活文脈には相容れない強烈なシステムではないかと思います。

 

海外の有名なアーチスト等が、社会問題に対して個人的にスピーチしたり、イベント等をボイコットするのも、神という絶対的に悪に対峙できる善があるからこそ個人でも行動を起こせるのだと思います。

 


よく日本人同士の会話の中に、皆がそう言っている” “皆が同じことをやっている等々。皆が右に習うのであればなんとなく悪いことではなくなっていくのです。

 

ビートたけしの「赤信号皆で渡れば怖くない」は正に日本人を表している名言だと思います。


個人で責任を負うのではなく、皆が認めれば悪いことではなくなってしまう。世間が判断する。



社会の中で起っている様々な問題を良い悪いと区別するのではなく、世間の中に取り込み共存させるという能力が日本人に身についている才能なのかも知れません。世間の空気を読み知る、それが日本人の生来の生き方のような気がします。

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世間話、井戸端会議は日本人にとって大切な情報共有の場であり生活の知恵袋になっているのだと思います。存在そのものが空気の様なネット民の情報交換はこれに当てはまることはないでしょう。




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対話は「自己との対話」「他者との対話」に分けられますが、もし方程式というものがあれば人生もっと楽しく過ごせるかも知れませんね。


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方程式と言うと数式を用いて問を解くときの公式ですが恋愛の方程式” “勝利の方程式” “成功の方程式など人生の様々な場面にこの方程式という単語が登場してきます。

 

誰しも人生について悩んだり苦しんだりした時、一度は本屋さん立ち寄って〇〇方程式を手にしたことがあるのではないでしょうか?

 

数式の様に正解を得られるわけではないのですが、できるだけ失敗は避けたい、少しでも良い結果に繋げたい、出来れば成功したいと思うのが人間という不安定な存在だと思うのです。

 


2006
年に90歳で亡くなった、精神科医の斎藤茂太さんの残した名言をNHKEテレで「モタさんの言葉」という5分の番組で放送しています。


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斎藤茂太さんの著作に今回のタイトルにも引用させて頂いた「いい言葉は、いい人生をつくる」があります。 日常生活で気になった言葉をメモに書き留めておいたものだそうです。

方程式ではありませんが、言葉のもつ力が人間の健康をも左右する点に着目し、精神科の医師として患者の治療に携わる傍ら、文筆活動もされていました。

「いい言葉は、いい人生をつくる」「続 いい言葉は、いい人生をつくる」は家族のエピソードや体験を踏まえた、とてもユニークな本でいつも傍に置いて読み直しています。


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さて最近、医学界では
医師と患者の「対話」の重要性が高まっているそうです。


最先端医療機器に頼るあまり、医師が問診もそこそこに検査をし、異常がなければ「病気ではない」と断定してしまう傾向にあるからだそうです。


それでは症状の背景を理解したり、将来の病気を予想したりしづらいと米国のイェール、ハーバード、コロンビア大学等の名門大学の医学部では

「ダンス」「絵画鑑賞」

などの「芸術系科目」を 必修科目にしているそうです。

名門大学の医学部が「絵画鑑賞」や「ダンス」を必修科目にする理由


*ハーバード大学医学大学院は、文学や演劇、ダンスの授業を課しており、近隣の美術館に出かける「課外授業」も取り入れているそうです。

*コロンビア大学では、創作文学や死亡記事の執筆の授業を開設したそうです。

 

こうした背景には、大学側の「共感力があり、思慮深い医師を輩出したい」という考えがあるそうです。

 

多くの医学生は学業が忙しく、絵を描いたり楽器を演奏したりする時間がなくなっているため、学生の共感力や感性が鈍くなることを危惧した大学側が、授業を受けさせているということだそうです。

大学側の意識が随分日本と違うように思いますがいかがでしょう?

 

そんな意識の違いが招いていることなのか、最近の日本の医療制度をみるとアメリカとは次元の違う流れが始まろうとしています。大病院の医師たちのハードワークを軽減しようとしているのか、大学病院に行くための紹介制度を導入するそうです。


紹介状を持たずに大病院に行くと個人は5000円負担を請求されるそうです。

 

数十年前から日本は世界で最も早く高齢化を迎えることは分かっていた筈ですが、ご多分に漏れず日本のお家芸といっていいでしょう、官僚の無責任体質から、結局いつもの泥縄式の数字合わせで当面の医療制度に対処するのが精いっぱいなのでしょうか?

 

最近何かと話題に上がっている、AIの進化でロボットに職を奪われる業種という記事を目にします。AIの進化だけでなく、産業自体が大きく変化しているのですから、今更感はありますが、進化のスピードには驚きます。


絵画鑑賞によって「視覚的な診断スキル」が向上することは、すでに研究で明らかになっているそうですので、医師の共感力と思慮深さが向上することは患者にとっても悪い話ではありません。しかし、先日囲碁の勝負でアルファ碁という人工知能が人間に勝利したことが話題になっていましたが、

勝負の決め手は視覚的配列パターンの学習結果

だったと報じられていましたね。怖い怖い。


人間は善と悪が共存していることでバランスが保たれていると言われていますがAIが人間との対話に方程式を作り出すことは可能なのかも知れませんね。

人口知能が書く「いい言葉は、いい人生をつくる」が出版されたらぜひとも読んでみたいと思います。




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NIMBYとは「必要なのはわかるけど自分の裏庭(=In My Back-Yard)ではやらないで(=Not)」という意味です。

日本流に言えば総論賛成!各論反対!ということになるのでしょうか。


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世界的には、原発、軍事施設、ゴミ処理場、刑務所、下水処理施設、葬儀場などの迷惑施設といわれる場所が対象になっていますが、狭い国土の日本では老人介護施設や保育園までもが“Not In My Backyard”議論の対象になっています。

 
別名「NIMBYシンドローム(症候群)とも言われています。


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世界中でも同様な問題を抱えていて、結局のところ解決方法は対話による「説得」と「納得」しかないそうです。

日本の場合には一般的に裏庭のような広い土地はではないので、問題の多くは過疎地や人口が少ない場所での迷惑施設が議論の対象になっていますが、まさに福島原発事故で発生した放射能汚染処理の問題でNot-In-My-Backyardが議論されていますが、ここでも、総論賛成!各論反対!


現実に直面してみると“Not-In-My-Backyard ”はとても難しい問題ですね。


以下は最近日本国内で顕在化している具体例です。

保育園が出来るとうるさくなるから他で建設してね!
騒音は嫌だから海の家は禁止!
大学の学園祭は夜になるとうるさいから19時までで終わってね!
敷地内の樹木の枯れ枝が落下して、子供が怪我をしたので敷地内の樹木はすべて撤去。
東北大学の寮で飲酒をしたため、全員退去命令。


問題は対話による話し合いが十分なされた結果なのかということです。


学園祭の例でいうと、早稲田大学の場合は時間制限はないそうです。理由は学生自ら近隣の家を訪問して理解を得るための「説得」の 努力をしていたからだそうです。矢張りと思います。


保育園建設の場合、人口減少で子育てがマイノリティーになったがために反対多数派に押し込められてしまうケースが増えているそうです。 プールも一階にあるとうるさいので地下に!というケースもあるそうです。自分たちも子供時代があったのにと思います。

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敷地内の樹木撤去の件は、今年私の住んでいる地元駅前で起こったことで、事故から2週間程度で実施されました。 あまりにも早い撤去には、臭いものには蓋の印象が否めません。 樹齢もかなりあったと思います。これまで育てた方がいて、四季折々を楽しませてくれた努力は一切認めないのでしょうか?


もともと議論の苦手な日本人には「臭いものには蓋をしろ」的な同調圧力の思想があり、問題をあいまいにしたり、うやむやにしてきた歴史がありますが、最近は格差問題も影響して、議論もなく民主的でない、力による解決策も多く見受けられます。

こんな状況で世界中が注目している高齢者(東京の場合20年後には独居老人が44%と予測)との共存が出来るのでしょうか?Not-In-My-Backyardを安易な解決方法 を取らないよう注目しつつ、公平な対話による「説得」と「納得」を期待します。

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プチ情報

世界中の資本が流入していて不動産バブル中のニューヨークのマンハッタンで、建設予定の33階マンションに低所得者層専用のドア(PoorDoor)を作ることをニューヨーク市が認めたそうです。低所得者といっても5000万~1億円の部屋のオーナーだそうですので、アメリカの格差がどの程度拡大しているのか想像絶します。



下記は『21世紀の資本論』で一躍有名になった経済学者トマ・ピケティ氏の調査によるデータから引用しました。




所得

アメリカ合衆国における所得上位10%の所得が、国民総所得に占める比率。



所得1%

アメリカ合衆国における所得上位1%の所得が国民総所得に占める比率の推移を示すグラフ。



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